安保条約の改定

 鳩山内閣のあとをついだ石橋湛山内閣は、首相の病気で短命に終わり、1957年に成立した岸信介内閣は、革新勢力と厳しく対決するいっぽう、安保条約を改定して日米関係をより対等にすることをめざした。
そのため防衛力整備計画をスタートさせて防衛力増強をアピールしつつ交渉を進め、1960年1月には、日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)に調印した。
新条約では、在日米軍の日本および「極東「での軍事行動に関する事前協議が定められたほか、アメリカの日本防衛義務が明文化された。
 革新勢力は、新条約は日本が戦争に巻き込まれる危険を深めるとして反対運動を組織した。政府・与党が、1960年5月、警官隊を導入した衆議院で条約批准の採決を強行すると、反対運動は「民主主義の擁護」を叫んでいっきょに高揚した。
安保改定阻止国民会議を指導部とする社共両党・総評などの革新勢力や、全学連(全日本学生自治会総連合)の学生、一般の市民からなる巨大なデモ隊は、連日国会をとりまいた(60年安保闘争)。予定されていたアメリカ大統領の訪日はついに中止されたが、条約批准案は参議院の議決をへないまま6月に自然成立した。条約の発効を見届けて、岸内閣は総辞職した。

保守政権の安定

 岸内閣にかわった池田勇人内閣は、「寛容と忍耐」をとなえ、革新勢力と真正面からの対立をさけながら、「所得倍増」をスローガンに経済成長を促進する政策をとった。
海外船の埋め立てによる工業用地造成や道路・港湾建設が進み、最新鋭の製鉄所や巨大な石油化学コンビナートなどがつぎつぎと建設された。
また、日中間の貿易は1952年の第1次貿易協定以来、民間貿易としてほそぼそと断続的に行われていたが、池田内閣は「政教分離」の方針のもとに中華人民共和国との貿易拡大をはかり、1962年には準政府間貿易(LT貿易)の取り決めが行われた。
1964年11月に成立した佐藤栄作内閣は、経済成長の順調な持続にもささえられて7年半以上におよぶ長期政権となった。佐藤内閣はまず、日韓国交正常化交渉の妥結を急いで、1965年、日韓基本条約を結び、韓国を「朝鮮半島にある唯一の合法的な政府」と認めた。
ヴェトナム戦争の激化によって「基地の島」沖縄の返還問題があらためて関心を集めるようになった。佐藤内閣は、核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を明確にして外交交渉を進め、まず1968年に小笠原諸島の返還を実現し、ついで翌69年の日米首脳会談で沖縄返還の合意をとりつけた。
1972年、ついに沖縄の日本復帰は実現したが、広大な米軍基地は存続することになった。この間、農村を主要支持基盤とする自由民主党は、野党の多党化や財界の支援もあって国会の安定多数を占め続けたが、党内では総裁の地位はめぐり、激しい抗争がくり返された。
これに対して野党側では、社会党から民主社会党(のち民社党)が分立したのに続いて、新しく公明党が結成され、日本共産党が議席をふやすなど、多党化傾向が進んだ。さらに、従来の革新政党を批判して学生を中心に組織された急進的な新左翼が、ヴェトナム戦争や大学のあり方などに異議をとなえる激しい運動をくりひろげた。

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